【文章】日本人は異文化に対して免疫が無さすぎるのではないか。
東京の職場の人から、プレゼントで『体験ギフトサービス』のチケットをもらった。
が、1万円を超えるというその金額に対して、日本の外れである田舎町の近隣には、おしゃれな東京人向けに作られたであろう、それらのサービスが体験できる場所は無かった。
もし最寄りのエリアでサービスを受けようとすれば、ゆうにその金額分を超える旅費が必要となるため、赤字を覚悟しなければならない。
また、体験できるサービス内容はといえば、対して魅力的でもないタダで自分でできるようなことばかりだった。私はピラティスもやらないし、スキーなら地元でできる。
空いた時間にふらっと自分で行く釣りの方が100倍楽しいだろうという状態だ。
……果たしてこのような状況だということを、送る側は調査したり想像したりしたのだろうか?
おそらく、東京ではこのようなサービスは価値が高いことから、『きっと自然が好きなあの人は喜ぶに違いない……!』というようなことを考えたのではないかと想像した。
そして、そこから以下のようなことを考えた。
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どうも、日本人は異文化に対して免疫が無さすぎるのではないか。
かつては集落などのエリア内での共同体が出来上がっていたが、現在は思想が共通している者同士での共同体が生まれる時代である。
例えばそれは、好きな漫画が同じ人たちの集まりのようなものだ。
しかしまだ現状は、集落での共同体が都市化によって無くなり、その代わりに会社組織が集落のような共同体の代わりになっている状態なのではないかと、今回の件を経験して思った。
そのような共同体の内部に居続けると、いつの間にか内部での慣習や文化が当然のようになっていき、その外に対する異文化への理解がなくなってしまう。
これが、島国として連綿と続く日本における鎖国状態の原因なのではないだろうか。
異文化に対する理解や想像が全くない。
こうした歴史が謎の組織文化を生む源泉となっており、謎のマナーを作り出すマナー講師が蔓延る社会を作り上げ、次第に異文化を排除するようになっていく。
冒頭に戻ると今回のことも、少し考えれば分かるようなことが『私たちがみんなこう考えて一致したのだから、相手も同様だろう』という思考プロセスが確立され、全く誰も得しない文化が醸成されてしまったのではないだろうか。
そのように考えると、むしろ日本人は多様でなく同一化しやすいがために、一致団結しやすいという民族性があるように思う。
それは裏を返すと、一度進む方向を間違えるとどこまでも暴走してしまう民主主義を生むことになるのではないだろうか。
それが軍国主義化して第二次世界大戦へと繋がっていった道なのではないかと想像する。
一方で諸外国では、陸続きのためにいつでも外敵が存在し、さらに異文化も身近に存在した。むしろ同一民族であることの方が稀で、外部環境により、強制的に民族的な多様性を作らされているとも言える環境だ。
その結果、民主主義や人権というものがうまく公約数的な働きをし、日本のような気に入らない人間を排除するための根拠となる民主主義ではなく、そこそこゆるいまとまりを生む共同体の繋がりとなって機能しているのかもしれない。
果たして日本が外国の民主主義と違うのはこの部分なのではないか?と思ったりしたということである。
ということで隠れて生きよ。