自然という無関心な存在

ダウンタウン世代の自分にとって、あの時代のパワハラのようなことが普通だった時代は確かにあった。

弱い者、コンプレックスがある者、みんなと違う者をよってたかって笑い者にし、いじめのような構図で笑いをとる……今でこそかなり問題になるようなことが、当時は許されていたし、実際にウケていた。

 

その代わりに「ファミリー」と言うように、組織内でのポジションを与えて、親分がそうした弱者を保護する、非常に男性的なシステムだったように思う。

資本主義化できず、今でも師弟関係のような仕組みが続いている業界は、未だにそうしたパワハラのような仕組みが成り立っているはずだ。

 

しかし、男性的なパワーによって限界まで発展した後、成熟期を迎えた組織は、SNSやネットというツールによって、個々人に焦点が向けられる女性的な社会になった。

伸びしろが無いので、巨大な推進力も生まれない。
空気と噂話が支配する、巨大な井戸端会議のような世界だ。

 

そこでは互いに相互監視する社会が生まれ、「愛」によって他者が裁かれる。
これまでは「正義」によって他人を断罪する時代だったが、これからは「愛」が他者を糾弾するだろう。

 

『愛』は、人間が作った概念だ。

 

だから私は自然が好きだ。

 

「多様性」とは、一定以上の無関心によって成り立つ状態だと思う。
実際、ネットワークで繋がった今よりも、繋がっていなかった少し前の方が多様性があったように思う。
分断された組織を、無理やり統合させることはできない。

自然とは、他者に無関心であるからこそ、多様性を持つのだ。